略歴

夜中にふと思い立ち、昔、相当な回数一緒にバンドをやった某後輩のブログを読みに行く。

相変わらずエネルギッシュな活動をしていることを期待したのだが、ライブの予定は昨年11月のものが最後だった。ちょっと拍子抜け。
プロフィール欄を見る。某バンドの名前が「シンガー人生を変えたバンド」として挙げられている。「一緒にコピーした時にはそうは見えなかったけど」なんて、画面の前で毒づいてみたりする。
好きなアーティストにソウルとかファンクとか書いてあるのを読んで、背中の辺りがくすぐったくなってみたり。

彼女とは、いくつかのレギュラーバンドで一緒にバンドをやったが、一番印象深いバンドは、初めてのレギュラーとなった、オリジナル曲をやるバンド(1992年のクリコンから1996年の駒場祭まで約4年間活動)だ。当時、同期の女性ボーカルを擁して歳の近い先輩ともレギュラーでオリジナルのバンドを組んでいたにもかかわらず、ど新人・ど初心者の彼女とその友人を唆し、もっと若い後輩を交えて新たなオリジナルバンドを作った動機は、今となっては正確には思い出せない。周りからは、スケベ心から作ったバンドだと思われていたようだし(それは否定しないが(^^;))、既存レギュラーバンドでは1イベント1曲くらいしか自分の作った曲を披露できない状況にじれったさを感じていたという自己顕示欲もあったと思うが、おそらく一番の理由は「プロデューサー」なるものへの憧れだったような気がする。

今日逮捕された元TM Network小室哲哉が、昼のニュースで「小室哲哉プロデューサー」という肩書き付きで流れていたように、一般的には小室哲哉小林武史が「半裏方」として名前を売り始めてから大きな注目を浴びるようになった役職だが、1980年代後半くらいには、日本の音楽プロデューサーに対しても、松任谷正隆・須藤晃といった面々への注目が高まっていたように思う*1。ちなみにぼくが気にしていたのは、小坂洋二氏(EPIC Sony)。小室哲哉が所属していたTM Networkを世に送り出したのも、彼だ。

閑話休題。そんな訳で、彼女にバンマス(と言う名の日程調整係)と作詞を任せ、ぼくは「プロデューサー」と作曲の担当という形で4年間バンドは続いた。結果は、と言えば正直なところ、最初の2年でやりたいことはやってしまい、残りの2年は新味のないものになってしまったと思っている。立場的にワンマンプロデューサーにならざるを得なかったが、ぼく自身が能力的にも性格的にもそういう「ぐいぐい音楽的に引っ張っていく」という立場に向いていなかったのだろう。最後の駒場祭の打ち上げの時に、言いにくそうにバンド脱退を申し出てきた後輩の顔は、今も忘れられない*2
ちなみに、もう一方のオリジナルバンド*3は、1990年夏から1994年春まで活動した。作った曲の数は少ないながらも、自分で好きな曲が多いのは実はこちらの方だ。バンマスをはじめとする諸先輩方に負けないよう自己主張を重ねながら、いい曲にしようとアレンジを重ねたのがその理由だろうと思っている。一般論で語れるほど良く知っている訳ではないが、こういうせめぎ合いがあってこそバンドとしての存在意義があるし、いいものが出来ていくのだろう。一シンガーが実力を付け、バンドメンバーやプロデューサーを凌駕(あるいは実力者を放逐)してしまった後、駄作を連発するのはよくある話だ。

元々このブログを立ち上げたのは、当時、2つ平行で活動していたこれらのオリジナルバンドの履歴をきちんと形にしておきたいというのも目的の一つだったのだが、バンド活動を続けている今は、まだあまり冷静に振り返ることが出来ない部分も多かったために、手を付けられずにいた。
客観的な記録*4は、ある程度残っているので、そろそろ手を付けてみようかな、と思ったりもしている。そろそろ、物忘れを気にしなければならない年頃でもあるし(-_-;)。

*1:それは逆に、いわゆる「職業作曲家」の地位低下を表していたのかもしれないが

*2:結局、この後輩の後任を探すことなく、このバンドの活動は終わった

*3:横浜出身の某有名ユニットと全く同名のひらがな2文字

*4:1993年頃には、電子メールでの打ち合わせも始めている